客の来訪を知らせる涼やかな鈴の音が店内に響き、若島津はゆったりとした足取りで小さな控え室を後にした。柔らかなカーテンで仕切られた売り場に一歩出ると、その動きに沿って甘やかな香りが周囲の空気に静かに攪拌される。 先日入荷したばかりの香。菫をイメージしたそれは、少し甘過ぎる気もするが女性には受けは良いだろう。 頭の片隅でそんなことを考えながら、客の姿を捉えるためにさして広くもない店の中に視線を巡らせる。 そこには、薄いシャツを着た長身の男が一人、背中を向けて立っていた。 「日向…」 見覚えのあるその人物に、若島津は少し驚いたように視線を止めた。声は呟きとも言えるほど小さかったが彼の耳には充分届いたようで、振り向いた男は片手を上げて軽く笑った。 「よう、元気そうだな」 相変わらずの、人を食ったような表情。 本気なのか不真面目なのか、彼との付き合いが深くなった今でも掴めない。 ――もっとも。 付き合いが深くなったと言っても、たかが何回か寝ただけだ。 無意識の動作でかけている眼鏡のフレームを引き上げ、若島津はその奥に自嘲めいた笑みを隠した。 細いフレームの華奢な作り。度はほとんど入っていない。しかしそれはもう自分の身体の一部のようになっていて、外に出るときは身に付けていないとどこか落ち着かない。昔から好きではなかったこの顔を隠すように。 ゆっくりと近づいてくる日向の姿を、眼鏡越しの視線で追う。 「…そっちこそ。いつ出てきたんだ?」 「ついさっき。久しぶりの街は暖かいな」 彼は言葉通りの暑そうな素振りで、着ているシャツの袖口のボタンを一つ外して見せた。 「出て来るんだったら、少しは身奇麗にしてきたらどうだ? 髭くらい剃ってこい」 不精髭のままの日向に呆れた表情を作ると、彼はまた面白そうに口の端を上げた。 言葉ほど日向を咎めていないことが知れてしまうほどには、付き合いはそれなりに浅くはない。案の定日向は、素っ気ない言葉にもまるで堪える様子はなく、若島津の目の前で足を止めた。 「剃ろうとは思ったんだけどな。たまにはこういうのもイケるかと思って。別の魅力で迫ろうっていう作戦だ」 「そりゃ、ご苦労な事で」 僅かな身動き一つでも、身体が触れ合う距離。耳元での囁き。 そんなものも、彼とはもう慣れたものの一つだ。 日向の言葉を軽く流しても彼はその表情を変えることなく、間近で見上げた目からは感情の動きは見えなかった。代わりに僅かに肩を竦めて見せて、その両腕を若島津の腰に回してきた。 「相変わらずつれないな、お前は」 「…日向」 言葉に非難の声音を含ませたが、彼はまるで気にする様子もなく、更に若島津の体を引き寄せた。 「日向、人が来る」 「来ねぇよ、こんな平日の昼間に」 思わずガラス張りの入り口に視線を向けるが、そこから見える細い路地には人の気配は感じられなかった。うららかとも言える日差しが、ガラス越しに静かに差し込んでくるだけだ。 確かに、こんな時間帯に客が訪れることなど滅多にない。表通りからは一本奥まった所に店を構える小さな香の専門店など、平日の仕事に追われる忙しい人々の目になどほとんど留まらない。それでも、休日ならば比較的客の足もあるが、それ以外はほとんど暇を持て余しているのが現状だ。 そこのオーナーをして4年が経つが、最初からそれはずっと変わらない。しかし、売上が彼の生計に反映しているわけでもなく、特に改善の必要性は今でも感じられなかった。ブームに乗って最近は女性客が増えだけ、まだましな方だ。 若島津は小さく溜息をついて、回された日向の腕に身体の力を抜いた。 「いい匂いがするな。新しい香か?」 「…そう、菫をイメージした、今年の春の新製品でね」 日向の暖かい腕は、いつも何故か心地が良い。低く響くその声も。 「お前も、いつも良い匂いがする」 でも今日のは、お前には少し爽やか過ぎねぇか? 続いた言葉に少し笑って、若島津はそっと目を閉じた。 彼はいつも土の匂いがする。そして、陽の匂い。 見た目からは捉え所のない、人を食ったイメージしかないのに、抱き合うと、彼からはどこか健康的な匂いがする。 上手く埋められない、その違和感。いつまで経っても、そのギャップに僅かな戸惑いさえ覚える。 いつまで経っても理解の出来ない、この目の前の、日向という男。 彼が一体、自分をどう思っているのか。 日向は一体、どういうつもりで自分と抱き合うのか。 そこまで考えて、あまりの馬鹿馬鹿しさに失笑せざるを得ない。そんなことを知って、自分はどうしようというのだ。 「日向、髭が痛い」 苦笑しながら若島津は、体を離すために日向の肩に腕をかけた。 「我慢しろよ」 引き下がると思った彼の手は、滑らかな動きで若島津の眼鏡を外し、次に顎へとかけられた。反論しようと開かれた唇は、それを成さずにそのまま塞がれる。 「……っ、」 息継ぎの合間に、溜息のような甘い声が零れる。 室内を漂う、密かに甘い花の香り。 思考回路を麻痺させる日向の温度。 「もう店閉めろよ。帰ろうぜ」 若島津の唇を開放すると、日向は間近で瞳を覗き込んだままそう言った。 都合も聞かずに突然やってきては、強引に腕を取る日向。 さしたる反論もせずに彼の言い分を聞き入れることに、僅かな抵抗を感じないでもない。しかし結局、それもどうでも良いことのような気がして、いつものように若島津は考える事を放棄した。 控え室に入ると、未だ立ち上る煙が静かに周囲の空気に溶け込んでいた。それをほんの束の間眺めた後、若島津は店の鍵を手に取った。 日向の運転は、意外にも丁寧だ。 出会って間もない頃に、そう揶揄かうように言ったことがある。大事な奴を乗せている時はな、といつものように日向は、感情の読めない表情で笑った。 骨ばった大きな手でギアを操作し、車幅の大きな車で狭い路地に器用に入って行く。 角を曲がって少しすると、若島津のマンションがある。 知り合って三年、彼は時折こうして若島津を店まで迎えに来て、一緒にこのマンションを訪れる。帰るのは、翌日以降。 会いたい時だけ会って、抱き合う。世間ではこういう関係を、セックスフレンドとでも言うのだろうか。 ――世間の言い分に興味などないけれど。 視線は車窓に向けたまま、若島津はポケットからタバコを取り出した。途端に日向が渋い顔をするのが気配で分かる。 車中でタバコを吸う事に文句があるわけではないと、これも以前言われた言葉だ。その日向自身、運転中にそれに火をつける姿を何度助手席で眺めたかしれない。 ――お前、せっかく良い匂いがしてるのに、タバコ臭くなるだろうが。 そう言った日向は、いつもより少しだけ真面目な顔をしていて、僅かに面食らった覚えがある。 どうせ香りなど、消し去りたくても消えないのだ。 香道家元の家で生まれ育った彼は、生まれた時から香りが共に在った。いくら家を嫌悪しても、それは一生ついて回る。25年も生きていれば、嫌でもそれくらいの諦めはついた。 それでも。 若島津は窓の外を眺めたまま、自嘲気味に笑った。 実家にはほとんど寄り付かず、周囲の反対を押し切ってこの地へ来て、こうして小さな店を構えて暮らしているのだから、悪あがきは未だ続いていると言えるのか。 助手席の窓を少しだけ開け、若島津はライターに火を灯した。日向は何も言わなかった。 タバコが半分灰になったところで、車はマンションの地下駐車場に滑り込んだ。 今日も自分は、日向に抱かれるのだろうか。 熱病に犯されたかのような、あの濃密な時間。ただ快楽に流されるだけの。 生きている意味など一欠片も見出せない自分が、唯一生きていると認識できる瞬間。 抱かれている時だけ実感すると言うのはどこか背徳めいていて、それはいかにも自分に相応しいように思われた。 思わず苦笑した若島津に、日向は僅かに眉を顰めた。 「何笑ってんだよ?」 「…別に」 ベットに倒されて、日向の体温と重みを感じる。滅多に見ない拗ねたような日向の表情に、眼鏡の奥でまたひっそりと笑った。 捲くし上げられたシャツの裾から忍びこんでくる体温の高い手に、今ではもう容易く翻弄される自分を知っている。徐々に上がる吐息に、他のことを考える余裕は簡単に吹き飛んでしまう。 しっとりと滲む汗に眼鏡が滑ってうっとおしい。若島津はそれを外して、ベッドヘッドに押し上げた。それを合図にように、日向が深く唇を重ねてくる。 こうして抱き合うのは久しぶりで、日向の行為の端々にも、多少の余裕の無さが感じられた。 恵まれた体躯、荒削りで男性的に整った顔。こうして自分など相手にしていなくとも、群がってくる女は多いだろうに。 熱に浸された頭でほんやりと考える。 節の高い指が体内に進入してきた時点で、かすれた声が若島津の喉を通り抜けた。噛み殺そうとしたそれは叶わず、声に煽られたように日向は動きを大きくする。始めは僅かに羞恥を覚えた反応も、今では何の感情も動かない。いつもの、慣れた行為と自分の反応。日向自身が入ってきた瞬間、彼の背中に腕を回してきつくその背をかき抱いた。 他の男と寝たことはないが、日向以外でも自分はこうして乱れて見せるのだろうか。熱い波に翻弄されて、我を忘れることがあるのだろうか。 馬鹿馬鹿しい考えに、場違いにも内心苦笑する。それが分かったわけでもないだろうが、そこで日向は性急に動きを早めて、すべての思考を放棄せざるを得なくなった。 「キツかったか?」 シャワーを浴びて出て来た日向は、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プルトップに指をかけた。 一口飲んで、テーブルに置く。ビールの缶がガラスのテーブルに触れた拍子に、静かな室内にカチンと小さな音を響かせた。 「別に。いつものことだろ」 ベットから身を起こしながらそう言うと、日向はわざとらしく顔をしかめて見せた。 「いつも優しくしてるだろ。がんばって抑えてんだぜ」 「よく言う」 笑みを零すと、ベットに腰掛けた日向に顎を取られて、再び唇が重なってくる。ビールに冷えた唇が心地よかった。 触れ合わせるだけの、熱を帯びない穏やかなキス。 激しさと共に、こんなにも静かな一面を併せ持っている日向。 どれが本当の日向なのだろう。 きっとどれも本当で、そして自分にとってはどれもフェイクなのだ。 彼の真実の姿など、一生かけても分からないのかもしれない。 分かろうとする気があるのかさえ、自分でも定かではない。 「お前の髪、まだ同じ匂いがする」 そう言って日向は、若島津の髪を一房救い上げて、そこに唇を当てた。 「店でしてたのと同じ匂い」 「あぁ…、入荷したばっかりで、最近それしか焚いてないから」 日向の唇はそのまま若島津の頬に触れ、そして首筋に移動した。 そっと体重をかけられ、再びベットに体を沈ませる。 暖かい腕と、太陽の匂い。 それを感じながら瞳を閉じると、日向が僅かに笑った気配がした。 「何?」 「いや…、お前、菫の花言葉知ってるか?」 「花言葉?」 日向からは、おおよそ想像もつかないその単語。若島津は、その愉快そうな色を見せる彼の目を思わず見上げた。 「そう、花言葉」 「日向、知ってるのか?」 「そんな意外そうな顔するなよ」 温度の高い日向の指。それがゆっくりと首の後ろ回されるのを感じる。 「…どこの女から聞いた話か知らないけど、じゃあ日向センセイ、一つご伝授願いましょうか」 「妬いてんのか?」 「馬鹿」 堪えきれず、笑みが漏れる。クスクスと笑いながらの戯れ。 日向とのそんなやり取りは、思いの外、自分の中で心地の良いものになっている。触れる唇の温かさも。手のひらの温度も。 自分に、彼のことを分かろうとする気があるのかさえ、定かではないけれど。日向は案外、自分にとって大事なものなのかもしれない。放棄した考えの先には、そんな結論がじっと動かずに待っていたのかもしれない。もしかするとそれは、日向と知り合ったずっと前から。 「可愛くないこと言うと、教えてやらねぇぞ」 「いいよ、別に。どうせ眉唾モンだ」 「ほんっと、可愛くねェ」 「ちょ…ッ、日向、…ッ、」 悪戯の意図を持って動く指先に、駆け上がって上がっていく体温。縋るものを求めて、日向の背中に腕を回す。 「――密やかな愛」 「…?」 「だとさ、菫の花言葉」 見上げると、日向の瞳の中に自分が映っていた。何故かそれに、安堵に似た感情が湧き上がる。 「俺がいるときは、いつでも菫を焚いてて欲しいね」 「…やっぱり、眉唾だな、その話」 何故そんな気持ちになるのかは、さっぱり分からなかったけれど。 我ながら不可解な感情に苦笑する。 それを隠すように伸び上がり、日向の熱い唇に若島津からそっと口付けた。 |
end / 2007.8.3 |
書きかけで放置していたものをサイト再開に伴い発掘
しかし…何だかね……アタマ痛いな…
設定的には、若島津は香道家元の実家を出て道楽的にお香屋さんやってる人。
日向は陶芸家(笑)
だった…みたい。なんなんでしょーねーそれは。当時は何を考えてたのやら。
裏テーマ的には髭とメガネ
……あれ、中佐?(笑)